哲学は何の役に立つのか

誰かが哲学は何の役に立つのかと問うとき、答えは攻撃的でなければならない。何故なら、この問いは、皮肉で辛辣であることが望まれているからだ。哲学は、別の関心事をもつ国家や宗教の役には立たない。それは、いかなる既成の力能〔権力〕の役にも立たない。哲学は悲しませるのに役立つのだ。誰も悲しませず、誰も妨げない哲学など、哲学ではない。哲学は愚劣を防ぐのに役立ち、愚劣を或る恥ずべきものにする。それは思考の下劣さをそのあらゆる形態のもとで告発すること以外の使用をもたない。

 

ドゥルーズニーチェと哲学』(江川隆男訳)

あなたは誰を劣っているとみなすか?

いつでも他人を恥じ入らせようとしている者を。

あなたにとって最も人間的なものとは何か?

他人を恥じ入らせないこと。

自由が達成された証しは何か?

自分のことをもはや恥じたりしないこと。

 

ニーチェ『喜ばしき知恵』

徳への喜び

「徳を探し求める道はでこぼこだらけで、しんどいけれど、徳にあずかることは心地いいのです」などと、しきりに教える人がいるが、それは「徳はつねに不快である」といっているだけではないのか? そもそも、人間のいかなる手だてが、かつて徳を享受することにまで達しえたというのか? もっとも完璧に近い人々でさえ、徳を所有することはかなわず、それを希求し、それに近づくことで満足してきたのだ。でも、そういったところで彼らはまちがっている。ーーわれわれが知っている喜びは、どれも、それを追求すること自体が喜ばしいものなのだから。なにかをくわだてることのうちには、それがめざすものの性質がただよっている。くわだてることが、実現することのかなりの部分を占め、それと同質のものとなっているからにほかならない。燦然と輝く徳の、幸福や至福は、その最初の入り口から、最後の関門にいたるまで、その付属の建物や通りのすべてに満ちあふれているのだ。

モンテーニュ『エセー』(宮下志朗訳)

現状によせて、『歓待のユートピア』から

「君がそれであるところのものとなれ。君の上に投げつけられた肩書き、社会的分類の中での範疇化にすぎないあらゆる同一化を逃れよ。君はこの番号ではない、このうわべではない、この化石化した言葉ではない。君がそれであるところのものになれ。君をつらぬく諸力に道を与え、扉を開けよ。君がそれであるところのもの、それは君の中にはない。君がそれであるところのもの、それは他者へと生成する君の能力、君以外の他者を迎え入れる能力なのだ。

君がそれであるところのものとなれ。わたしとはひとりの他者なのだ。歓待の徳は、われわれの生成を語るこの単純で汲み尽くしえない言葉に集約されるだろう。これこそは現代の標語というべきものだ。

それはわれわれの家の、われわれの国の、われわれの魂の、われわれの肉体の、留保のない、限度のない、たえまなき歓待への呼び掛けである。」 ルネ・シェレール『歓待のユートピア

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俺は自分の足で図書館へ行き、自分で本を選び、自分で文章を書く。シーンのルールには興味もない。哲学のみ。哲学のみ。

誰かがまたくだらないこと気にしてる間に、また本を読む。受け入れられないならそれまでさ。哲学のみ。哲学のみ。

 

ありゃビジネスだ。ありゃ死んだ学問。別に否定的になったわけじゃない。そりゃ知ってるよ、しょうがないこと。流れた先、嫌ってたとこ。でも考え込む、一度きりだろ?結局同じ昔の哲学者のよう。哲学only yo。sk8もそう。どんなMyMenも離れてくのかも。考え込むな結局これもそう。でもバビロンは生理的にFuck Off。信じてたアイツまた遠くの方。単純明快さ、「人柄」ならJob。Believe In My Mind。小さい器でも。どう見られるか分かってたこと。こんな文章じゃ引用もないな。指の隙間からLoveはすり抜けて。

 

俺は自分の足で図書館へ行き、自分で本を選び、自分で文章を書く。シーンのルールには興味もない。哲学のみ。哲学のみ。

誰かがまたくだらないこと気にしてる間に、また本を読む。受け入れられないならそれまでさ。哲学のみ。哲学のみ。

 

 Big Job来てももうだりい。Moneyいんない。迎合。初対面コネクションは捨てた。Im Da Kidsピーターパンのようにsk8、友達、Family、Honey。文章書いてMoneyていうかHobby。それだけじゃスルメスキルだけじゃ消えちゃう?忘れたくない最初の頃見たくだらないポイで消費する才能。もう嫌だなんて暗い、楽しければなんて歌ってたい。もう嫌だなんて暗い、あいつの本だけ読んでたい。ありゃビジネスだ。昔見た学問。いわゆる死んでるとこ、俺は属したくない。でも知ってるよ、しょうがないこと。流れた先、嫌ってたとこ。

 

俺は自分の足で図書館へ行き、自分で本を選び、自分で文章を書く。シーンのルールには興味もない。哲学のみ。哲学のみ。

誰かがまたくだらないこと気にしてる間に、また本を読む。受け入れられないならそれまでさ。哲学のみ。哲学のみ。

愛することを学ばなければならない

「音楽に聴き入るとき、われわれの内部に生じること、ーーまずはとりあえず主題と曲調を聴くこと、つまり聴き出し、聴き分け、それ自体として独立した生命をもつものとして分離・限定することを学ばねばならない。続いて、たとえ馴染みがなくてもそれに付き合うだけの労力と善意をもち、その眼差しや表情をじっくりと眺め、奇矯な点をも大目に見なければならない。ーーそうすれば、やがてはわれわれが音楽に慣れてしまう瞬間がやってくる。音楽を期待し、音楽がなくてはいられなくなるだろうと予感する瞬間が。そうなると音楽はさらにとどまることなく威力と魅力を発揮し続け、ついにわれわれはその献身的で心酔した愛人となり、もはやこの世にそれ以上のものを求めず、ひたすら音楽だけを願うようになるのだ。ーーしかしこれは何も音楽に限った話ではない。いまわれわれが愛しているものすべてについても、ちょうど同じようにして、われわれは愛することを学んだのだ。疎遠なものに対して、善意と忍耐をもって公平に優しく接すれば、それは最後にはかならず報われる。そうなると疎遠なものも徐々にその覆いを脱ぎ捨て、言い尽くしがたい新しい美として現れてくるからである。ーーそれはわれわれの歓待に対する感謝である。自分自身を愛している者も、同じやり方でそれを学んだのだ。それ以外の道は考えられない。愛することもまた、学ばなければならない」ニーチェ

真面目に考える

「たいていの人びとにとって、知性というのは、反応が鈍く陰鬱で、油切れして操縦じづらい機械である。彼らは、この機械を働かせ、よく考えようとするとき、「物事を真面目に考える」という言い方をする。ーーなんと、よく考えることは、彼らにとっては苦役なのだ。愛すべき動物たる人間は、よく考えようとするたびに、気分が悪くなるらしい。そう、そのとき彼らは「真面目に」なるのだ! そして、「笑いと喜びがあるところでは、思考は何の役にも立たない」ーーこの真面目な動物は、あらゆる「喜ばしき知恵」に対してこんな偏見をもっているのだ。よろしい! ではわれわれは、それが偏見にすぎないことを証明してみせようではないか!」ニーチェ