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歴史と反復

人は自分で自分の歴史をつくるとはいえ、どうにでも自由にできる素材から歴史をつくりだしているわけではないし、その際におかれている状況も自分で選んだものではない。その状況とは元からそういうようにして目の前に与えられているものであり、先人から受け継いだものなのだ。死んでしまったあらゆる世代から伝わってきた伝統というものが、いま生きている世代の頭脳に、悪夢のなかで人を襲う魔物のようにとりついている。そこで、いま生きている世代は自分と物事を変革して、これまでなかったものを作り出そうと頑張っているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時代に、過去の亡霊たちを恐るおそる呼び出して使おうとする。今生きている世代は過去の亡霊の名前や闘争スローガン、舞台衣装を借りて、こういうありがたい時代ものの扮装を身に着け、借り物の台詞を使って、世界史の新しい場面を上演するのである。

マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』

 

美しい贈与経済

 過去から未来への美しい継承の連鎖の中に位置を与えられていることの喜びを味わうには学ばねばならない。翻っていえば、学びには喜びがつきものであるということになる。

人間的貧困と救い

 思考の中に経済学が流し込む毒によって、所有欲こそ人間の本質だと思い込まされている。だが本来、承認の欲求、存在の欲求こそ人間的なものだ。そしてそうであるのなら、「わたしはここにいてもいいのだ」という感覚が希薄であるのは、貧困であることよりも貧困であろう。経済的な貧困よりも恐ろしいのは、この人間的・精神的な貧困である。心の糧を養う術を学ばねばならない。

 まだ見ぬものも含めてとりどりの方法がありえるであろう。あらゆる技藝が心を養う。国家だけが救済の、唯一の手段ではない。

人間の製作所

人間の製作所というのは、遺伝的な株を再生産するための工場ではない。歌や音楽なしに、舞踏術や儀礼なしに、〈人間の孤独〉に関する宗教的ないしは詩的モニュメントなしには、ひとつの社会も運営されえないだろう。[そうしたものすべてが、われわれ人間を「生きうる」存在へと造形しているのだ。生が生き得ないものになっているのはなぜか。それはいかにして生きうるものとなるのか、それがわれわれの問いだ] 

   ーールジャンドル  西谷訳

飽くことがないのはなぜか。

 わたしたち、近代人であるわたしたちが物質的な富を追いながら決してそれに飽くことがないのは、そうした富をつうじて追い求められているものが物質的な欲求を満たすことではないからである。物質的な欲求であれば、有限量の資源によって満たされることもあろう。しかし物質的な富の追求に際限がないことが明かしているのは、その対象が無限であるということであって、だとすれば、そうした対象となり得るのはただ非物質的なものだけである。それは、いつだってもっともっと望まれているような何かである。経済理論というのは希少な資源の合理的な管理のことではない。この理論は自分をそうやって定義しようとして、「オイコス」に関する「ノモス」、すなわち「家政を宰領するうえでの決まり」という語源的な意味を折につけては持ち出すけれども、そうではないのだ。いま話題にしている著者はこう説明している。経済を動かしているのは欲望、とりわけ他者から認知され、妬みまじりでよいから賞賛を獲得したいという欲望である、と。この点に関するかぎり、ひとは決して飽くことがない。

 

ジャン=ピエール・デュピュイ『経済の未来ーー世界をその幻惑から解くために』(森元庸介訳)、以文社、2013。

 

「彼らは私を、理由なく憎んだ」

  舞台装置をどうするかは演出家にまかせるとしよう。世界という舞台でもよいし、運動場という舞台でもよい。そうした細部はさして重要ではない。核兵器配備の軍拡競争の話でもよいだろうし、携帯電話の最新モデルの話でもよいだろう。とにかく二人の登場人物が、ある対象をめぐって争っているとしよう。どちらも、その対象の入手を相手が阻止すればするほど、いっそうその対象を入手しようとする。争いは熾烈になっていき、やがて対象はその重要性を失い、まったくどうでもよくなってしまう。争う両者は、それでもなお何かのために戦い続ける。少なくともそういう印象を与える。だが実はそれは、彼らが「面目」とか「威信」とか呼ぶもののためなのだ。つまり、(「威信の」)語源が示すように、何でもないもの、理由のないもの、何かの幻想にすぎないもののためである。しかしながら、憎悪は両者の間でひたすら高まっていき、一方の側の憎悪は他方の側の憎悪によってますます煽られ、両者はいっそうわかちがたくなっていく。もはや両者の間に割り込むものなど何もなくなり、世のいかなる対象をもってしても両者を引き離せなくなる。この段階にいたると、彼らはすべてを吹き飛ばしてしまうことさえ厭わなくなる。自分自身や、まわりの世界もろとも。

 

ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』(嶋崎正樹訳)

 

 

 

哲学は何の役に立つのか

誰かが哲学は何の役に立つのかと問うとき、答えは攻撃的でなければならない。何故なら、この問いは、皮肉で辛辣であることが望まれているからだ。哲学は、別の関心事をもつ国家や宗教の役には立たない。それは、いかなる既成の力能〔権力〕の役にも立たない。哲学は悲しませるのに役立つのだ。誰も悲しませず、誰も妨げない哲学など、哲学ではない。哲学は愚劣を防ぐのに役立ち、愚劣を或る恥ずべきものにする。それは思考の下劣さをそのあらゆる形態のもとで告発すること以外の使用をもたない。

 

ドゥルーズニーチェと哲学』(江川隆男訳)